2009年10月14日水曜日

認識とは

私も年を取ってきて年々一年が短く感じられる様になりました。



患者さんで90歳の方が昨日まで10代だった気がすると言った人が居ました。決してその方が認知症だった訳ではありません。要は年をとれば取るほど一年は短くなる。



時間と空間は実態があるようで私は思い込みの現象だと捉えています。広さは数字で部屋で言うと何畳とか何坪とかよく使いますがその部屋でさえ家具の配置や種類により部屋の受け止める広さの認識は驚くほど違います。



どんな大きな家を建てても椅子に座っていたとして目を開いているからそこには広い部屋と高級な家具が配置されていると感じる。目を閉じてみたら四畳半で安いテレビしかない部屋と区別はつかない、全ては視覚からくる自分の認識をお金を使って満足させただけ。




目を閉じて区別がつく人間は居ない。ならば例え四畳半で高原のロッジで椅子に腰かけていると思えばそれで足りてしまうし、不必要なお金など要らなくなる。



時間も同じでインスタントラーメンを待っている時間は長いと一般的には長いと感じる。私は行列のできる食べ物屋でも2時間でも平気に並ぶタイプの人間であるが、同じ時間でも待ち時間の長い店では我慢できる人でもすぐに出来る店で待たされるとイラつく人がいる。



私が見たのはマクドナルドで『何時まで待たせるんだ~』と大声で怒鳴った人を東京モータショウの近くのマックで見かけたが、いったいマクドナルドでどの位待つと言うのだろう?


待たされて1時間待たされる事もない。例え15分でも我慢の限界と考えて大声で怒鳴る。



私が好きで行く定食屋に家族で食べに行った時、隣の家族のお父さんが「いつまで待たせるんだ~」と大声を出して、食事が来始めたのにお金を払わず食事もしないでお店を出て行った人がいた。


奥さんや子供は可哀そうである。







時間は私はそもそもが存在しないと考える。







時間は私も何時に予約が入っているとか。電車は何時とか生活で使ってはいるが、この世に生命がある寿命がある物が生命を基準とした物差しと考えている。







寿命がない不変のものから見れば物質の変化はあったとしても時間の概念が生まれて来ない。







歴史も単なる生命のある人間がそれぞれの短い人生を繋げて書きとめた事でしか過ぎない。







時間は感じ方だけで年を取ると ジャネーの法則と言うのがあり「年齢を重ねるほど、1年が過ぎる速さが増す」  「時間の心理的長さは年齢に反比例する」という説です。50歳の私を例にすると10歳の1年に比べて、50歳の1年は5分の1に感じる(5倍速く感じる)というものです。







時間も空間も思い込みで認識も思い込み



その認識でさえ頼りないもので誰でも勝手に今までずうっとある出来事と間違って思い込み恥をかいた経験があるだろう。



私の母親がすし屋でよく定期的に寿司を取った20年位たってたまたまその寿司屋に母親が家事か何かで私が電話した所。



その寿司屋は『すし清』すしせいと呼ぶ



が私の母親は私の名前がきよしと言うせいもあったので<すしきよ>と20年も思い込み私が電話で注文した時に『へい、すしせいですが』と言う対応で誤りに気がついた。



母親にその事と言って、電話口で『すしせい』って言っていなかったのかい?と尋ねても本人はそう思い込んでいるので『すしきよ』に聞こえてしまうのであった。この話題は母親が40代のまだ若い頃の話であるのでうっかり屋のさざえさんみたいな話である。







その事だけでなくすべてが思い込みと私は考える。謙虚に考えると殆どの出来事が思い込みと自分の勝手な考えだけで生きている。もっと大局的な視点からみればいかに考えると言う行動が狭義な世界かを認識できる。

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