2009年10月30日金曜日

運命

どうしても人は他人との比較をしてしまう。テレビに出てくる100歳の人がいてあんなに元気なのに私はまだ75歳でこんなにあちこちが悪い、友達がまだ元気なのにと健康な人に合わせようとする。
世の中不公平にできていてそれが均等で公平なのである。

よく不幸ばかり続き私は何も悪い事をしていないのにどうしてなのか?前世の影響なのか?と何か原因を見出そうとする。例えとして升一杯に赤の玉が幸せ白の玉が普通黒の玉が不幸としたばあい一杯が寿命とする。その下に一生分の升目があってその玉がどこかに入るとする。当然玉は赤白黒赤白黒と入らず偏った入り方をする。黒黒黒の場合もあるがそれが納得できないでいる。

近年サプリメントや微量必要栄養素を長生き若さを保つために摂取する傾向にあるが魚柄仁之助さんの江戸時代の古い文書を読んだ話で呉服問屋の店主が毎日油揚げを甘辛く煮たのだけを食べ続けて倹約していた人の話が出た。その人は80歳まで生きたそうである。

私が読んだ本で必要栄養量の70パーセントぐらいの方が長生きをするエンテロピーの話は以前したが個体は栄養素が十分に入っていても長生きしないボディビルダー程栄養に気を使う人はいないが長寿ではない。

私自身粗食であるし、大食いもしない標準体重である。毎日一万歩を歩き血圧血液数値も問題も無いが、だからと言って私が長寿になるとは今の時点では考えていない。死ぬ時に結果として短命だった長寿だったと思う程度としか人の命は分からないものなのである。

私の家の草花が増えてしまうので株分けをして全部が全部育つ訳でなく同じ条件なのに枯れてしまうのもある。わが子が縁日で金魚すくいをして金魚を持ってくると死なせてはいけないのですぐに薬浴させてから育てあげていくが縁日の子供が「縁日の金魚って直ぐに死んじゃうんだよね~」と話していたが誰がすくいあげるかも運命である。

2009年10月29日木曜日

自殺は思い

記憶とはいかに曖昧なものか、犯人の面通しでこの人に間違い有りませんと断言しながら、少し違っていたかもしれません。に変わり別の人でしたと言う証人も居る。
また逆で新犯人であってもヤッテいないと巧みに嘘を言い続け次第に自分は本当にヤッテいないと思い込む様になる。

記憶は感情の保存から発展したものと言われている。昔猿だった頃に危険な目に合う事や食事等を学習する事から発展して行ったと私は聞いている。始めに悪い事をしていても次第にそれが悪い事と思わなくなる。何でも全て慣れが支配している勉強や学習や始めの頃辛いと思っていても毎日毎日となるとそれが嫌だと感じなくなる経験はあるだろう。

よく過労で夫が死に遺族が重労働を理由に会社を訴えるケースがあるが重労働では本来人は死なない零細自営業者の方はわかると思うが経営者は従業員の数倍働く従業員が帰ってからも仕事は山ほどあり休日だってあって無いようなものだ。私の患者さんの婿さんの話を聞いたが食事をするのも自分で忘れて居るほどで帰って来るのは日付が変わってからだ。そして朝早く出勤して、その繰り返しで義理の母に当たる患者さんが体の事を心配していた。でも大丈夫だった。

前向きな人は俗に仕事に乗っているので重労働jを感じないでこなせているのである。

今日もラジオで今度入った女子大生が「あん~こんなに仕事したら早死にしちゃう」なんてのが居るんですよ心の中でこの子に言ってやりたいとのハガキの投書であった。何らかの上司か上下関係に有る立場らしい。パーソナリティの南野 洋子さんは皆のモチベーションも下がるし言ってやった方がいいんじゃないですか(-_-#)との事だった。

昔ホテルニュージャパンが火災になった時の捜査書類を捜査講習に若い頃進んだ頃見せてもらった。実況見分調書は物凄い量でその当時は手書きであるから、不眠不休の大変な作業であったと書類を見ただけで想像する。なんでそんな話をするかと言うとその時の担当係長がネクタイでトイレで首を吊って自殺したそうだ。大変なプレシャーも有っただろうが自殺する事でその後の書類は他の人が作らなければならないし後の人は残された仕事をやり遂げた訳である。

辛いと思い始めると辛くなる「あ~もう夜の7時か あ~12時を過ぎてしまった 今日も徹夜か」等など仕事をしながら仕事以外の辛い方ばかりに感情は向き始めそれに呑まれていって自殺する。
よく家族は「夫は毎日休みもなく管理職の重責で疲れきっていて鬱状態でした」と自殺した理由を裁判所に言う。別に会社も使い倒して殺すまで働かすつもりもなかったし訴えられる事で大きな損失を被る。他の人にそこまでなら引き継げば良かっただけなのだから。耐性のある人はいる。人間関係関係でも聞き流せる事が出来ていつもニコニコしている人もいれば一言に対して攻撃性を持つ者もいるし環境が全てではない。

私の提案する心の科学性を理解していただかないと大きな誤解を生むもちろん亡くなった方や残された家族の方を思うと悲しいし私が心に光を差し伸べる事が出来ればと思う。

2009年10月27日火曜日

記憶は嘘をつく

『記憶は嘘をつく』の帯付に自分の記憶は正しいとおもっていますか?

とあるが、自分の考えは正しいと思っていますか?に置き換えてもいい、更に自分の意識は正しいですか?となる、。同じ人間を好きになったり嫌悪感を抱いたりまた考えなおしたり。まったく相手の人間は変化している訳でもない。

ある女性漫画家が私の人生子供の頃から暗黒の時代で友達もいなければ辛い事ばかりだったと思っていたが、最近になってはそれなりに楽しかったし友達もやっぱり大勢居たと幸せな成長を遂げたとコロッと人生を見直して思い違いだったと笑って言っていた。

別にこの方は宗教に入信した訳でなく今の売れっ子である程度満たされた状態で過去を思い直してみただけである。

私の治療院に子供の頃から度重なる虐待を繰り返されて性的な虐待もあったという涙ながらの従業員の男性が入ってきたことがある。私もそんな不幸な人生を歩んだ人なら特別に優しくしなければならないと始めは思っていたが、治療院での勤務態度は悪くて凄いものがあった。
1か月を待たずに退職して頂きたい事を申し出たが労働者の権利だ労働基準法だ特別の退職金を支払いなさいと数々の難解意味不明な要求を突きつけてきた。

実際この方は少年時代に虐待があったのであろか?一時アメリカで子供が親を訴える訴訟が多くなり親側が敗訴したそうである。子供が親を訴えるのだからそれは事実であろうと言うことだ。
しかし今は親側が勝訴する。それは社会現象だと言うことがようやく分かったからだ。

2009年10月26日月曜日

人間関係③

7%以外にはどうして介入できないかは、意識に認識が無いからだ。自分の意識と言うものはしっかり認識しているようで実は殆どが無意識というか頼りないいい加減な存在で、その物事を判断する残りの僅かな意識でも感情に左右されて同じ出来事でも受け止め方や感じ方がその日によって違ってくるいい加減なものだ。

前に話した事だが梅宮アンナさんが「みにくいあひるの子」だった私と言う本を書いたら当時の同級生からいじめられたのは私の方とまったく逆の投書が上がった。事実はどうであろう?

徳光さんの対面番組で別れた奥さんが子供に逢いたいと申し出があり夫は怠け者で働かないで苦労して子供を残して出て行ったと奥さんが申し出があり、ゲストの人は奥さんの身の上不幸話に涙したが、子供達が出演したら奥さんの話は真逆の事で父親には感謝して母親は悪者であった。母親は『嘘よ、嘘よ、そんなの全部嘘よ』と泣きながら弁解していた。

この二つのお話は教訓的にとても重要な事なので二度三度と話してみる価値はあると思う。

人は自分の思う考えの生き方をしているだけで認識の人生なのである。
殆どの人が現実実際の事だと思い込んでいる

『記憶は嘘をつく』ジョン・コートル著講談社の本を読むと更に記憶とはいい加減なものである事が分かる。

2009年10月25日日曜日

人間関係②

人はその人の理解コンタクトをするにあたって一般的に言われている事だが言語7%服装髪型等が38%行動仕草等が58%となっているが。どうしても多くの人が7%に集中して労力を人間関係に注ぎ込んでいる。たった7%しかないのですからどんなに完璧な事をやり遂げても7%しかできないのに。

では何故7%に努力を集中するか?
それはそれ以外人は手立てが無いからです。

ラジオ人生相談のオープニングのセリフで『意外と自分の事は分っていないものかもしれません、相談して解決の助けになるかもしれません』と語っているが、自分は自分の意識のフィルターで意識が存在しているのですから当然です。

心理学の講師を招いて薬局の勉強でお客様の性格判断のお話で聞いた話では服装でかなりの割合でお客さんの性格を事前に判断してそれに合った接客対応をすると言った内容でした。
血液型性格判断は参考にはならないと言いきっていました。細かく服装別に大まかな性格分類をしますが性格が服装に出てしまうのも着こなしている人の頭の中のワールドでの選択であるから大学の先生の服装が参考になると言ったのも理解できる。

『変身する技術』石田 雅男著 幻冬舎でいかに弁が立つことが有利である事の誤解である事を身をもっての体験で語っているが、弁に精神活動をつぎ込みうつ病になりその後の回復してから、人格者として生まれ変わり人が寄る人柄は私はまだ若かった頃から老人になった石田先生を知っているが人を引き付ける魅力をもの凄く持っている方だ。

人はどうしても変える出来ない部分が多い事を認めてからが世界感の認識が変わる。

2009年10月23日金曜日

神を信じる意味

私がよく宗教書を読むのも別にどこの宗派にも所属して居ないせいもあるし、人生に挫折してや病気に苛まされて助けを求めての入信をしている訳でもない無い為かどちらかと言うと始めは否定的な見方や各宗派の歴史を読んだりしていた。

私みたいな特に金銭欲もなければ現在の経済力に満足している家族も明るく健康な立場は明日にはもちろん常に先は分らないから何とも言えないが。今だに神にすがる事は無い。

ジョンレノンが言ったとおり複数の人種がいて神がそれぞれいて不思議だ。空は一つ本当は世界はひとつである。
現実は意識がある以上それぞれの世界が生まれてそれぞれの神が生まれる。
私の息子が低学年から英語をやっているが英語力を段々とつけるのを見ていると人種なんか本当は存在しないと思う地球人でしかない。隣の国との問題なんか存在しない。よく国益と言う言葉を使うが国益が何か?同じ人間で財産が欲しいなら国を無くせばいい、日本人が水産資源、地下資源を得て国が豊かになれば幸せが個人にまで及ぶのだろうか?幸せはお金では無い。

私が仕事をしていて患者さんが宗派に属している事がよくある。熱心な方もいる。なぜか決めた宗派が一番であり、真の宗教だと思われている。自分の宗派を下げて言って他の宗派を持ち上げる話など聞いた事が無い。神を信じると何故か認識はより狭義に神に関してなっている。

2009年10月22日木曜日

明日が乞食とも限らない

日野原教授も語っている、『幸せの敷居を下げなさい』と多くの本でも語っている。
私が語るなら現状は不安定な砂上のお城の上の世界であって現状が現実を投影しているものでは無い事を認識する事から始まる。

例えば人が羨む様な豪邸で暮らしていて、最初には満足していても段々と更にもっと豊かな生活を望んでいた人が居たとしても、その豪邸自体がキャシュで買いその他にその何倍もの動産資産があるだろうか?大体はしっかりと銀行の抵当権が設定されている不動産に間借りしているだけだ。

動産資産が仮に相当に持っている人であっても、それを通帳に入れておく事はしないから常に投資のリスクに晒されて増える可能性もあれば大きく減らしていく可能性もある。

浮浪者の事を語るが警察署に『紳士録』と言って生前ホームレスの方に連絡先等を聞いておきお亡くなりになった際にご家族に連絡する方法を取っている。すると私等の足元にも及ばない高学歴であり社会的地位のあり、語学も堪能で世界各国をビジネスマンとして活躍されていたとする人や社会的な立場も上の方もいらしゃるのである。
別に仕事に失敗して解雇されてホームレスになった訳でもない人たちである。私よりも学歴や能力が遙かに上の人達が考える事があり世捨て人と呼ばれる立場になっただけで。戻ろうと思えばスーツに身を固め飛行機のビジネスクラスで各地を転々とする生活に復帰する事が出来るだろう。

いつ自分とその人との立場が変わっても可笑しくは無い、逆に私にはそこまでの能力が無いので代わる事が出来ないのであるが。

いつも現状は永遠では無いと思う事だ。寺田 和正著『3年に一度は「勝利の方程式」を変えなさい』はサマンサ・タバサを作りあげた人の本だ。この中で従業員に新年会と夏の社員旅行に喜んで貰う為に誠心誠意努力している。この本を読んで貰うと分かるが初めは食後のデザートで社員の歓声が上がるが年々耐性が出来る為に感動してもらえなくなってくる。スペシャルゲスト、ビーチの貸し切りとどんどんとエスカレートしていくのが人の本性だ。

永遠は無い。

いつ病気になり貯金を使い果たすかもしれないし、商売でも会社でも業態が変わったり社会の変革には明日の保障はないのが現実だ。
今を有難がると更なる贅沢に対する耐性は生まれなくなる。

2009年10月20日火曜日

人に悪人無し

どんな人でも意識から見た世界は現実ではなく屈曲して見える。
世界を見た時点でその人の認識から思考が初めて開始されその人なりの分析が始まりだす。

色眼鏡で出来事を見てはいけない、物事を決めつけた見方をしてはいけないと言うが、それは死んだ人しか出来ない。どんな人であってもその人の目から入った情報はフィルターを通してしか意識確認するしかない。本にも出てくるが99パーセントの悟りは悟りではない水は100度になって初めて沸騰する事が出来ると。100パーセントの悟りをした時点では生きて居る事は出来ない。全てどんな教祖さんでも食事もしないで1か月とは命を持ち続ける事はできない。どれだけ人に取って勝手な解釈でガイアに寄生しながら生活しているのが人である事か?

どんな清らかな聖人であっても、極悪人であってもそう傍から見ては違わない、私が警察の仕事で非行や暴走族の少年等と話しても根が優しい子ばかりであった。やくざ者であってもいい面を持っている。それは全部の犯罪者がそうだろう。私は留置場の現場に3年いたがこれらの人々は特別な人ではない
仕事をしながら、私も何かの偶然が起これば立場が変わる可能性もあると考えて仕事していた。

勿論私は法律を守るし反社会性の様な事はしないが、少なくても犯罪者は特殊な人々では無い、いつ私が満員電車で痴漢の冤罪をかけられるかも知れないしそれを無罪を証明する方法は無い。
(私は満員電車に乗る時は両手を上にあげて防衛して乗っているけれど)

2009年10月19日月曜日

人間関係①

私は子供の頃から人間関係の本が好きで、最初に手にしたのは名著と言われていデール・カーネギーの「人を動かす」を中学生の頃手にした。その後様々な人間関係の本を読ませていだだいたが最近は哲学書が多くなった。

人とは生物であり、生物をどんどん拡大して見てくと、細胞になり細胞と拡大していくと原子になりさらに原子と電子のガス状にもやった状態までたどり着く。そのガス状の物体が何らかの方法でお互いに伝達行為を行った居る。私は学者でもないがこれは凄い事だとおもう。

人間関係の本は当然ながら人対人を前提に様々な問題に対して解決策や方法を提起しているが私個人は根底から考えなおしていくべきだと思う。例えばリチャード・カールソンの世界的な名著「don't suite the small stuff」和名「小さいことにくよくよするな」の中で自分と他人とは違う、それを認める事で腹も立たないではないかとある。

しかしそれはどうか?私は地球上の人間はみんな同じだと思う。
価値観や文化風習、宗教や生い立ち、教育、人生哲学すべてが違うのではないかと思うでしょうが、それは私にとっては意識レベルの認識で前にお話した狭義の部分であって狭義な部分ほど同じ出来事に対して認識の差が生まれる。

日野原先生が幸せの閾値(いきち)を下げなさいと言われているが、戦争中の食べる物が無い時代に食べ物を分けてもらっただけで幸せだったじゃ無いですか?と言われているが出来事ではなく認識の差だけである。絶対的なものは上げたり下げたりなどできません。

全ては認識の錯覚が発端であって真実などは無く、全ては幻想であって絶対的なものは存在しない。
人は同じであるから夫婦になっても共同生活が出来るのであって、私と妻とは同じ生物ガスの番いでしかない。同じだから、とくに問題も無く死ぬまで番いをしてられる。
排便をすれば心地よいと思い、食事を抜けば空腹感が起こり、悲しい映画を見れば悲しみ、実は人は皆同じなのです。だから世界的なベストセラー作家や書著が多く存在しているのです。

2009年10月15日木曜日

死とは怖いものか

死は怖い物で死にたくないと考えているか、無意識に死の話題を避けているのが普通の人だ、病院勤務時代も今週中に亡くなる人であっても多くの人はまだまだ自分は死なないと思いこんでいるのが不思議だ。



身近でありながら遠い存在に思い込んでいる。



死についての考えを語ろう。これも死んだら死なんだろう?と言うほどの単純ではない。

相撲で死に体と言う言い方があるが、すでに死んでいるが後から確定がやって来る。



意識を無くし自我がなくなり現社会と交流できなくなった状態も死という見方もある。

脳死を人の死とする考え方だ。



寝ているときは覚醒して居ない意識はレム睡眠ノンレム睡眠を問わず寝ているときは起きる時まで外界の事を知ることはできないし、会話も当然できない死に近い。

当たり前を順序建てて考えて行くと寝ているときは不思議な状態である。



介護しているベット上の人伴侶が丸っきり無反応で目を明け口を開けている状態である時は意識の疎通もなければ交流は皆無だその状態はどう考えるか。



反応があってしっかり受け答えをしてくれたとしても娘が父親の介護をした有名な話の山口美江さんが父親から『そろそろ結婚しようか』と語られた話であるが違う人格の人を介護して他人を人格上は世話している状態であった。



体が温かいから死とは呼ばないと言う見方もある。

意識レベルの段階法等があるがそれが死とは関係しないし簡単ではない。



看護学校の学長が看護師になっていく生徒達に死とは当り前の出来事で朝起きる寝る事と少しも変わらない普通の出来事なんです。と言ったそうだ。

寝て起きてこないだけの事あたり前程度の事
自分の番になったら決して寂しく考えないで、多くの作家が書いているが死とは孤独な物で孤独死と言う言葉自体がおかしいとある。



さあのんびり寝かせてもらおか、自分の種の時代は終わった、しかし次の種に引き継いだ事だし、と考える様に死んで行くつもりだ。



死の時も状況によっては自分の事だけを考えて死ぬ人もいれば戦争で事故で家族と一緒に大けがで死んで行く場合は自分の死よりも、相手の致命傷を案じ息絶えて行く様を残念がって心配していくだろう。



自分の死の恐怖などよりも孤独感とか一切の自分の状況より目の前の相手の苦しみを辛く思うだろ。



意識により、自己の死の受け入れ方や死にざまも変わってくる。

2009年10月14日水曜日

認識とは

私も年を取ってきて年々一年が短く感じられる様になりました。



患者さんで90歳の方が昨日まで10代だった気がすると言った人が居ました。決してその方が認知症だった訳ではありません。要は年をとれば取るほど一年は短くなる。



時間と空間は実態があるようで私は思い込みの現象だと捉えています。広さは数字で部屋で言うと何畳とか何坪とかよく使いますがその部屋でさえ家具の配置や種類により部屋の受け止める広さの認識は驚くほど違います。



どんな大きな家を建てても椅子に座っていたとして目を開いているからそこには広い部屋と高級な家具が配置されていると感じる。目を閉じてみたら四畳半で安いテレビしかない部屋と区別はつかない、全ては視覚からくる自分の認識をお金を使って満足させただけ。




目を閉じて区別がつく人間は居ない。ならば例え四畳半で高原のロッジで椅子に腰かけていると思えばそれで足りてしまうし、不必要なお金など要らなくなる。



時間も同じでインスタントラーメンを待っている時間は長いと一般的には長いと感じる。私は行列のできる食べ物屋でも2時間でも平気に並ぶタイプの人間であるが、同じ時間でも待ち時間の長い店では我慢できる人でもすぐに出来る店で待たされるとイラつく人がいる。



私が見たのはマクドナルドで『何時まで待たせるんだ~』と大声で怒鳴った人を東京モータショウの近くのマックで見かけたが、いったいマクドナルドでどの位待つと言うのだろう?


待たされて1時間待たされる事もない。例え15分でも我慢の限界と考えて大声で怒鳴る。



私が好きで行く定食屋に家族で食べに行った時、隣の家族のお父さんが「いつまで待たせるんだ~」と大声を出して、食事が来始めたのにお金を払わず食事もしないでお店を出て行った人がいた。


奥さんや子供は可哀そうである。







時間は私はそもそもが存在しないと考える。







時間は私も何時に予約が入っているとか。電車は何時とか生活で使ってはいるが、この世に生命がある寿命がある物が生命を基準とした物差しと考えている。







寿命がない不変のものから見れば物質の変化はあったとしても時間の概念が生まれて来ない。







歴史も単なる生命のある人間がそれぞれの短い人生を繋げて書きとめた事でしか過ぎない。







時間は感じ方だけで年を取ると ジャネーの法則と言うのがあり「年齢を重ねるほど、1年が過ぎる速さが増す」  「時間の心理的長さは年齢に反比例する」という説です。50歳の私を例にすると10歳の1年に比べて、50歳の1年は5分の1に感じる(5倍速く感じる)というものです。







時間も空間も思い込みで認識も思い込み



その認識でさえ頼りないもので誰でも勝手に今までずうっとある出来事と間違って思い込み恥をかいた経験があるだろう。



私の母親がすし屋でよく定期的に寿司を取った20年位たってたまたまその寿司屋に母親が家事か何かで私が電話した所。



その寿司屋は『すし清』すしせいと呼ぶ



が私の母親は私の名前がきよしと言うせいもあったので<すしきよ>と20年も思い込み私が電話で注文した時に『へい、すしせいですが』と言う対応で誤りに気がついた。



母親にその事と言って、電話口で『すしせい』って言っていなかったのかい?と尋ねても本人はそう思い込んでいるので『すしきよ』に聞こえてしまうのであった。この話題は母親が40代のまだ若い頃の話であるのでうっかり屋のさざえさんみたいな話である。







その事だけでなくすべてが思い込みと私は考える。謙虚に考えると殆どの出来事が思い込みと自分の勝手な考えだけで生きている。もっと大局的な視点からみればいかに考えると言う行動が狭義な世界かを認識できる。

2009年10月13日火曜日

勉強

学問がいかに大切であるか、私は子供の頃から勉強を得意とはしなかったが、それでも途中からそれなりに勉強をするようになった。今でも本を読むのは好きである。

私が鍼灸学校、柔整学校を通じて成績が良かったがこの事は私が頑張ったからだとは思えない、業界のレベルが学力的に低いからだと思う。私が専門学校在学中でクラスで頭の良い生徒になったなど比較論でおかしな話だ。

私は警察官として勤務した以外会社勤め等の経験が無い事からなんとも言えないが、鍼灸学校の同級生の多くは社会人で会社を辞めて学校に入学した人がかなり居た。

今は私の学生時代と違い大変多くの学校が乱立して、私が呉竹学園鍼灸学校本科の入学した当時と比較にならない広き門になった。今の生徒の入学の学力レベルが下がっているのが心配だ。

私は子供に勉強の大切さを説き豚児ではあるが、継続して勉強をさせている。
私の子供の頃とは比較にならないが、勉強をする事は大切で大人になって殆どの人が子供の頃勉強をもっとしておけば良かったと思っているのでは無いだろうか?勉強をして損をしたと思う人は居ない。

勉強をしたから、いい大学に行ったからそれが社会で成功しているとは限らないと言う方もいらしゃるが、成功する為の絶対条件で勉強するのでは無い。
先日述べた健康法を思い浮かべて頂きたいが健康法を順守した所で長寿とは限らない。
特に人は集団生活なので社会性をもっている誰からも好まれるし勉強は一つの道具と言える。

勉強は勉めを強いると書き勤勉性を培うものです。
鍼灸柔整以外にも若い頃から勉強会で私はベンツを買える位のお金を使いましたし、資格者としても多くの資格を持っています。これからの若い先生が寝る時間を削って、遊びなどにも目もくれず本を読み漁り勉強会に出まくり、勉強をしてもらいたいのですが、残念ながら鍼灸学校の学生ガイダンスに参加しても勉強に興味がある生徒が少ないのが現状です。
せめて薬事法改正で大幅に資格取得が簡単になった登録販売者の資格をとり、もっと漢方薬の事を学んでもらいたい。

2009年10月12日月曜日

意識

意識を追及してくると自覚と他覚の境界線が曖昧になり、その自覚がいかにいい加減なものかを自覚する。
自我は己の意識というより、自己の主張や我ままであると言える。

年を取って段々と生活習慣病というより、老衰により各関節内臓すべてが衰えてくるが、年を取っても丈夫な人がいる。それを比較にしてテレビの人はあんなに元気なのに私はとか私の友達に元気な人がとかすべてが比較になる。

エンテロピーまたはテロメアでも構わないが個体差運もある事を知ってもらいたい。
ドライバーさんで何年もゴールドカードの人に私はいつも凄いですねーと称賛すると、必ず帰ってくる言葉は『違反とかは、してるんですよただ運良く今まで警察にその時捕まらなかっただけです』と返事が返ってくる。
昔の兄弟の多い人で7人兄弟だとしよう、7人がそれぞれ満年齢で順番に90歳に到達する順に死亡する事も無いであろう。

先に書いた外環境でも余命は決まらない、私が患者さんに聞いた話だがある先生が健康自慢で健康法を患者さんに説き毎日玄米を食べ決まった時間にウオーキングをしていたそうだ、まだ40歳になるかで癌になり死亡した。
先生は何故癌になったんだ?何故癌に私がならなければならないんだと言い続け死亡した。

健康法は必要だが絶対には無い勿論私は気を使っているが、患者さんにもあなた達と同じです、明日の事は分りませんと私は言っている。

ブラジルあたりでは太っていることにおおらかであまり健康法の事を言うと『そんなに気をつかってもどうせ死ぬんだから、食べたい物を食べた方がいい』と言われるそうだ。
ある意味その通りだし、体に気をつかうのと、同じくらい魂に昇華させる意識が必要だ。
肉体は賞味期限の非常に短い物体だから。

2009年10月10日土曜日

原因と結果の法則

京セラ稲盛和夫『生き方』に仏教には、「思念」が業を作ると言うおしえがあります。業とはカルマともいい、現象を生み出す原因となるものです。つまり思った事が原因となり、その結果が現実となって表れてくる。



と書かれている。私がもっと簡単に言うと幸せになりたければ全てを捨てなさい。人間関係の好みにしても好き嫌いというが。好き嫌いはその事自体が利己的なものです。



たとえ死を迎える時に窒息を味わったであろうとしてもその人にとっては今までの苦痛から魂が解放される瞬間であり、幸せと感じながらのもう一息と考える瞬間かもしれない。



そんな事でたとえ死と言う不幸の代名詞的なものでも幸せ不幸は分らない。お金持ちであっても心が貧しい人は私から見て『貧しい人だね』としか人は思わない。

5

、『五者の条件』の五者とは、学者、芸者、医者、役者、易者を言うが治療家とはどれが欠けてもいけないと思う。

五行説になぞって5とはとても大切なことが多い。
とりあえず本を一般人よりも多く読む事は必要で、昔『椅子が怖い』夏樹 静子の腰痛放浪記が話題になった事があったその時に私の周りの先生に『椅子が怖い』を読みましたか?と出合った人に片っ端から会話の中に混ぜて伺った事がある。 結果は誰も読んでは居なかったし、良くても聞いた事ある程度の事である。

これでは私は治療に対しての考え方を語り合う事も出来ないし、一般人との会話の方と会話しているのと同じである。 ある患者さんは大変な読書家でアロパシー、ホメオパシーの事を知っていたし。ピアーズテクニックのピアーズの名前まで知っていたのは驚いた事があった。

知識の話をしたがやはり古い本で『原因を結果の法則上下』ジェームスアレンにではないが最終的には宇宙を語る。 すべてが小さい事であり、内面から見た世界感で環境が病気を作るのでは無い。

人は結果を環境に求めるが、内面の創造から環境がある。心の召使が体である。

2009年10月9日金曜日

東京都監察医務院

ここは東京都の23区の死体病死変死事故死かを司法解剖する所である。
ここで警察官が観察医務院医師が解剖する時に立会をする。私が行った時は死体を頻繁に扱うので肉臭が心なしかする気がした。医師の司法解剖は手慣れている為に私が見ていても本当に早い、手慣れた作業でドンドン処理をして行く。

あそこにある資料は財産だとおもう。おそらくあれだけのホルマリンに漬かっている資料は大学病院の解剖病理学教室も無い筈でひとつひとつをじっくりみていたら時間が相当かかる。

一般の人は観察医務院には入れないだろうが、死体との多くの対面は医療をする者には解剖学的死を考えさせるとても良い場所である。床には血が落ち膿が落ち生き物だ。

2009年10月8日木曜日

オペ室

柔道整復師であるので病院に勤務していた頃オペ室の足持ちと称して患部の固定役係を交代でやららせていたがこれは勉強になった。
助手は看護師が行うのでひたすら固定だけをするが足等はかなりの重さがありこれを手術終了まで動かさないで耐えているのはかなり辛い事であるが、患部の病変は目の当たりに見る事が出来た。

医師である古典に長けた家本 誠一先生が素問霊枢に拘ったのは昔は解剖をして臓器を観察して実際に血管の中に竹ひごを通してルートや長さを確認したり、解剖したが。難経になってからは解剖は認められなくなり人は動物から離れて人間であり哲学中心になりすべてを五行や陰陽で解するようになった。その時代の様子を何かの本で読んだが孝行息子が自分の母親が口から虫を出して死んだ事から腹を切ったら死罪を言い渡されたと、の内容だった。
何でも鍼灸で治すと言い張る人癌、捻挫で腫れている足でも鍼だけで良いといい、固定等必要ないそうで、足の各支持靭帯の名称すら覚えてないし興味が無い。原因作用も分からない。ただ径を治療すれば治ると言い張る。
どこを刺すのかと尋ねると解谿を刺して胃経を治せば良いと言ったある団体の学術担当をした人の例である。これで良いのだろうか。

私なりに死人を扱い病人を扱いしてきた結論は人体は魂の入れ物器であり中国では人体は魂の入った糞袋と呼ぶが、糞袋には動物であって生物学的な見地が必要である。
魂に関してはどんどんと哲学なり宗教的な観点からも更なる追及をしていくのが

2009年10月6日火曜日

解剖

治療家の先生は解剖をした事はあるとは思うが、できれば海外で解剖を経験してもらいたい。
海外の死体は国内の死体と違い、検体も豊富だし日本のボロボロになった物とは違う。
鍼灸の先生の多くは実際の死体解剖の数が少ないのと実際の新しい状態から解剖するのではかなり違う。多くの死体でそれぞれの疑問やテーマによって解剖の仕方が変わってくる。

海外のあるカイロプラクターは自宅に解剖室を作り、葬儀屋の資格を取ってそれこそ幾らでも自宅で新しい死んだばかりの方を解剖している。日本の解剖のペースではない。日本の治療家は人体と死体とを豊富に扱う事が無いのでどうしても古典の本に傾倒して哲学だけで実際の老化と病理的な変化を受け止めないし、哲学だけで治ると言い張る人がいる。

私は自分がもし許されるなら自分の患者さんの葬儀に行ったらメスを持ってお亡くなりになられた方一人一人を全員解剖して疑問を解決したかった。病変は外からでも勿論推測は立つが、実際は程度や推測との相違などどんな簡単な死体であっても解剖の必要は本当はある。

日本は死体を敬うので難しいが、仏教の教えでは魂は離れた体は川に流して魚の餌にしなさいとの話も有るぐらいで、海外は解剖室は明るく解剖の雰囲気も明るい。

2009年10月5日月曜日

世代交代

昨日は子供の運動会であった。キリスト系の学校の為に学校長の挨拶は好天を下さった神様に感謝しましょうとの事である。天気は偶然であり、同じ学校の幼稚園は雨で体育館で運動会をしたそうである。

しかし感謝する事は大切であって現状に全て感謝しなければならない。
もうひとつの話は
『子供達の成長を見てください、それに代わり私達はドンドン弱り衰えて行きます。子供達に将来を託して私達は老いて行くのです』とも言っていた。

大人はすでに半分お棺に足を入れかけていると気づいて居ない人が多い。80歳で何故治らないのだろうと言って1年後に死んで行った人も居た。きっと100歳まで病気一つせすにボケもせずテレビに出て来る健康気な老人を自分に投影しているのだろう。

私の母でも病院で病気を年のせいにされると腹が立つそうである。
私から見ても歩く姿がすっかり老婆になり、一緒に宿に行って廊下の間取りが分からなくなり違う所に行こうとしたり、昔の母親では考えられない部分が少しづつ出ている。

今の世の中老いを認めて己は世代交代の歯車であり若い世代にしっかりと引き継ぎをする役割にもっと徹してもいいのでは無いだろうか?

警察官が少年少女を補導して両親に連絡しても育児放棄と言うか。親がどうしようも無いと言った話をある方から聞いた。それでは引き継ぎの役割を放棄しているのでは無いだろうか?

2009年10月3日土曜日

体質

よく薬は体質によると言う体質に合っていなければならない。
これは誰でも知っている事だが鍼灸の先生が69難で同じ治療では選択肢が少ない。鼻水なら葛根湯、桂枝人参湯、苓甘姜味辛夏仁湯、柴胡桂枝湯、四逆湯、柴胡桂枝湯、呉茱萸湯選択肢をあれこれ考えるが何でも69難は難行はどうか。

素問霊枢を読む69難の現代解釈自体が個人的には納得出来ないし、私の目上の先生でも同じ考えである。

私は経絡治療学会の刺し方であったが途中から東洋鍼学会の刺し方になり。
それからまた疑問を持ち基本的な陰主陽従は同じであるが、将来もっと科学が解明された時に意外とチャクラのシンプルなものかも知れないし、がらっと変わりそれにより古典の解釈も変わるだろう。
しかし私が何百年も生きられないから分からないが。

2009年10月2日金曜日

伝統医学

『伝統医学の世界』池上 政治薯 エンタプライズ社を読んでいただくと分かるが昔の三大伝統医学
「アーユルベ^-ダ」「ユナニ」「中国医学」があるが日本では手技療法と思われているが実際は違う。
アーユルベーダは頭に油を垂らすオイルダラー位しか考えない。日本では鍼灸師は鍼と灸とマッサージだけで治そうと考えている人も多いし鍼と灸だけですべての病気を治すと言っている人もいる。(実際治ってないが当然である)

三大医学の歴史は手技もさることながら薬草の弛まぬ研究の歴史であり、中医学で言う湯液の歴史である。先人と言われる人が自分の体や周りの人々で人体実験で草を口にして下痢をしたりしながら学習して学問化をしていった臨床学であるが、現在の鍼灸師の中には臨床家でありながら科学を失いただ哲学のみの古典を崇拝して居る者もいる。

漢方薬は非常に効くこれは自分で経験済みである。本来中医学を例にすると湯液と鍼灸はセットでありどちらもとても大切なものだ。
三大医学に戻るが三大医学の歴史は薬品研究の歴史であったとも言える。家本 誠一先生が現在の鍼灸の現状を嘆いていたが古典を狭い範囲で考えたりする偏った人を別にして古典の解釈は私も先生に従いたい。

2009年10月1日木曜日

生老病死

エンテロピーの考え方を少し述べたい。
道教の考え方は不老不死の考えがありエンテロピーの増大の進行を遅らせる事にあると考えている。
エンテロビーの増大はどうして死になるかと言うと、この世に生を受けて僅か体重3.000㌘たらずの赤ん坊が徐々に人としてプログラムされた成長速度でドンドン大きくなり続け一人前の成人になりやがて老いて死んで行く。
例えば我が家の草花を例に上げよう日当たりの良い鶏頭はドンドン大きくまた早く育ち成長が早いが、成長が早い分早く成長がとまりやがては枯れ始める。同じところでほかの草花にすっかり覆われて日陰でいる鶏頭は同じでありながら成長がほとんどしないまま時間だけが経過していく、やがて自分を覆い隠していた品種が先に枯れて邪魔しなくなってからそれから成長をしはじめ遅れる事数か月で見事な花を咲かせる。

ラットや小動物の食事の量による実験でも理想的な栄養数値よりも6割くらいにすると個体が1.5倍以上長寿になるそうである。今の子供たちは植物で行くと早生なので将来現在のような100歳の人が多数いるような事にはならないだろう。

エンテロビーは増大してやがて人間が死んでもそのエネルギー質量自体は変わらない腐ってアンモニアガスになったり色々な原子にまた戻るだけで地球全体から考えると質量不変の原則の通り。何にも無かった事の様に分解しただけの事である。